1999-05-03 (Mon)
#1 宇多田ヒカル論
彼女、割と好きです。カラオケでよく歌う。曲はいいし、作詞作曲をあの若さでやる実力もすごい。けど、CD売上日本一はそのせいだけではないだろう。藤圭子(といってもあたしは知らなかったけど)の娘で、NYで育ち、今もアメリカンスクールに通っているという話題性によるところも大きいと思う。
「帰国子女」と「2世タレント」、それから「若い」という最近の芸能人にありがちなこの組み合わせは、
- 日本はつまらない国だ
- 学校なんて役に立たない
- 早くから自分の才能を見極め、それ一本に絞って早く開花させるべきだ
という、今の日本人の大半の思いを代弁しているのではないか。
昔は、芸能人というのは文字通りのスターで、普段なにをやっているか分からないような神秘的な存在だったのだと思う。その後、みんな芸能界やマスコミのシステムを知識として持つようになり、大げさなPRは通用しなくなった。「隣のお姉さん的」な芸能人という言葉も使われるようになった。
でも、人は何のために芸能人を見るのかというと、何か自分の手の届かないようなスゴいものが見たい、という欲求を満たしたいのだと思う。それは、顔がきれいとかスタイルがいい、理想の異性のタイプを体現している、というのが古典的なパターンだけど、最近はそれに加えて「"良い生活環境"というのはやはり素晴らしい」という思いをみんな持っているのではないだろうか。
生まれたときからお金持ちで、やりたいことは何でもやれて、海外で教育を受ける(日本人にありがちな海外崇拝)。学校には頼らず、その道を極めた親につきっきりで才能を伸ばしてもらう。運良くそういう環境に恵まれ、元々あった才能を若くして開花させる。ここまで徹底していると最早ひがむ気にもなれない。そういうものをテレビの中に見たいのではないだろうか。
日本はだんだん能力主義の社会に変わりつつある、と最近よく言われている。能力のあるものは恵まれるというのはある意味フェアだが、人間は誰も、同じスタート地点から走っているのではない。こういう"育ち"の良い人――親に恵まれ、環境に恵まれ、お金に恵まれた子が徹底的に勝っていくところの方が、ただ単にルックスがいいだけの人などよりもよっぽど「スゴいもの」として見る価値がある、とはあたしも思う。
<あとになって。>
上の文章は、いま振り返っても良い文章書いたな〜,と自分で思ってしまう。最近、宇多田ファンの掲示板などを見ていて、上記のことがたいてい当たっていると思うからだ。特に「アメリカへの憧れ」を彼女に投影しているファンはとても多い。
アンチ宇多田に対して「日本はこういう風に才能ある人を妬んで引きずり落とす文化だから嫌だ」という風に日本人の国民性を持ち出して反論(しかもそれは正しいのか?)するのはどうかと思う。例えば広末ファンがアンチ広末にこんな風に反論することはないだろう。憧れが強すぎて、アメリカで働かされるだけのインターンシップに30万くらい払って行っちゃいそうな人たちという感じ。
この種の人たちはアメリカを「フェアで公正な競争がある国」というプラス面でしか見ていないようだけど、アメリカだって人種問題もあるし決してフェアなだけではないと思う。彼女がアメリカで売れるにあたって、アジア人であることはかなりのマイナスになっているはずだし。(99/11/09)


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