2001-03-19 (Mon)
#1 「山形道場」発売記念・講演会レポート
字を緑にしているところは話に出てきたわけでもなく、会場の様子の描写でもなくて個人的な感想です。
山形さんは、この前JNという雑誌ではじめてまともに見たんだけど、まさにあのままの感じでした(当然か)。しゃべり方は基本的ににこやか、とつとつとして穏やかで、悪く言えばメリハリにやや欠けます。まあしゃべりのプロじゃないからね。でも時々ジョークを交えたりしていい感じです。
会場は約100人くらいいたでしょうか。開演5分前くらいに入ったのだけど、席は8割くらい埋まっていて、もらった券には086とありました。話が始まった後からも入ってくる人がかなりいました。会社帰りぽい人たちかな。全体的に20代後半くらいの人が多いという印象です。初めからいた学生と思われる人たちは、かなりファッションに構ってなくて思想おたくみたいな人か、カルチャー系にも興味ありなおしゃれ系のどっちかという感じ。男女比は7:3くらいで男が多い。
話の内容だけど覚えている限り書きます。
1)山形道場にも載っていた割引率の話(金融系の話、要するに今日100円もらえるほうが一年後100円もらえる約束より価値が高い、その理由は一年間に何があるか分からず、約束が反故になるリスクがあるから)と、生物には寿命があることも割引率の決定に関係あるかも、そこから経済と生物学を組み合わせた理論ができるかも?
2)「新教養主義宣言」と比較して「山形道場」の位置付け、いつも出来上がった本は、出来が悪いのではないかと怖くて半年くらい読めない、結論が分からなくて放り出しておいたものを勝手に深読みしてくれる場合もある。最初の本であった「新教養〜」は意気込んでいて、できるだけ極端なことを言っている文章を集めたとのこと。それにくらべて「山形道場」は、ええとなんだっけちょっと忘れたけど、前書きでも言っているように「民主主義」みたいな大きなお題目と、小さな具体的手段の中間がない、そこをどうするかという文章を集めてみたということかな。それに対するつっこみ(たぶんこれのこと)の話も少ししていた。
3)続いて中間の話ってことで、山形道場の序文にあるニューヨークの都市計画規制を例にとって説明。何枚かコピーが配られる。ここで都市計画関連がでてくるのがやっぱり先輩だ〜って感じで個人的にはうれしいね。これが日本の都市計画だとどうなるかという話もあった。個人的には良く分かったが初めて聞いた人に分かったかな?椅子に立ったりして建物の形状を身振り手振りで示して壁面線とかセットバックとかの解説を懸命に行う山形氏。これはプリントで配られた。
都市計画の話だけにあたしには日本の状況ってのが容易に分かるので、やはり市民が何を知りたいのかってことを政策面での伝える工夫が足りないのね〜日本の役所は、と思った。マスタープランとかの「表現」だけの日米比較って都市工の研究として認められるだろうか。そういえばどこかでマスタープランかなんかに特定の単語(「環境」とか)が何回出てくるか調べて傾向を調べた研究を見たぞ。ということはやっぱりありかな。
これは話に出てきたわけでは全くないけど、まちづくり条例の特殊な例。これは都市計画関係者にはかなり評価が高いものだけど、こんな風に「変な法律」に取り上げられてしまったりするのを見て改めて読み返してみると、たしかに難解だなと思う。あと、この「美の条例」にもなぜ「美の原則」を守ると「自然環境、生活環境及び歴史的文化的環境を守り、かつ発展」ができるのかというところが詳しく書いてないのね。
もうちょっと一般的な例。宇都宮市都市マスタープランとその概要版。やはり、専門家の文章だなという気が改めてする。望ましい人口密度などを定めているけど、NYの例に倣うなら、これがどういう計算からでてきたもので、このくらいだとどのくらいのスペースの家に何人くらい住むことになるのか、ということを示すといいんだろうな。
3)専門分野と言葉の話。専門書の入門書でも、入門者をびびらせるためにしか書かれていない本がある。仲間内の専門用語を使って排他的なコミュニティを作っている。不動産業界では「競売」を「けいばい」と読まないとバカにされるらしい(ちなみに今「けいばい」でちゃんと「競売」に変換できた)。また、山形さんはそういう専門家と一般の人の間に断絶があるが、その橋渡し役をしたいということ、文筆活動を翻訳家から始めたこともこの橋渡しってことに関係あるかも。
このへんがサブタイトルになっていた「コミュニケーション・ギャップ」の意味なのね、山形道場で「中間の話」はすでに読んでいたのに、それを英語化したものだということに気づかなかった。最後にこの辺について質問した人もしてもっと詳しい話もあり。
4)話し言葉と書き言葉の話し。現実には誰も使っていない「話し言葉」がある。たとえば、「〜さ」「〜わよ」みたいな口調はおかしい。誰もそんな風にしゃべってないって。それが山形氏の書き口調にも関係ある、というような話。
5)同僚の柏木さんと共訳した「コード」という本の話。これはインターネット上の法規制について書かれた本だが、もっと広い範囲の考え方が書かれている。自分が漠然と考えていたことがまとめられている、「山形道場よりこれ買った方がいいよ」とのこと。
ざっと本の内容をまとめると、インターネットは自由な空間、匿名の空間だというけれども、そんなことはない。政府や企業の意向によってこれからいくらでも変えることができる。そのためには法律を厳しくすることもできるけど、コピー不可能なプログラムをつくるとか、プロバイダに全アクセスを記録させて個人情報を開示することなしにネットにつなげなくするようにするとか、物理的に取り締まることもできる。しかし、現実世界では法律を破ろうと思えば破ることもでき、そのことが権力の監視に役立っていたりすることもある(内部告発など)ので、ネット上でも物理的に「法律を破れない状態」にすべきではない…という感じ。
これに関連してプライバシーの話もあったけど、これは意味がよく分からず。なぜ今までプライバシーは守らなければならないのかはっきり決めなかった。しかし、インターネットが発達して検索エンジンなんかも性能が良くなって、これからはなぜプライバシーを守るかをしっかり定義しなければ、プライバシーを守ると称してなにか違うものが守られるだけかもしれない…と大体こんなふうなことを聞いたのだけど、こう書いても意味がさっぱりわからない。時間があれば質問したのだけど。「コード」読めば分かることなのかもしれない。
5)前項の自由と規制の話に関係して、リバータリアンという人々の考え方の話。小さな政府志向で、市場万能主義だそうだが、完全な自由というのが良いわけではなく、ある程度フレームがあってはじめて自由は機能する。東欧やロシアが自由な経済を達成しているとはとても言えないのがその証拠。
6)「自由」に関連してバロウズの話。自由に無責任に生きた彼が寂しい晩年を送ったのも「ただ自由なだけではダメ」という例ではないか、と。「自由のなれの果て」という言葉も使っていた。
個人的にはバロウズに興味はないけど、要するに「やりたいことを楽しくやるためには隣人や家族への気配りや楽しくない手続きが要るよ」っていうことでしょ。なんかよくある人生論くさくて山形さんらしくないなと思った。そりゃ事実だとあたしも思うけどさ、ちょっと意外。あと経済の話と人生論を一緒くたにしていいのかな、とも思う。
カットアップという手法の説明。一つのストーリーを、説明を削ってかなり短くし、わざと分かりにくいようにして書く。山形さんも認めているようだけど、バロウズって単なるいい加減な物書きじゃん。麻薬を買うお金が欲しかったから適当な文章を量産していたようでもあるし。例に挙げてプリントをつくってくれたような生々しい男同士のセックスだのオナニーだのの描写にも興味もてないし。
最後の説明で山形さん自身「はじめは好きなSF作家が褒めていたから自分も褒めなきゃやばいかな、というところから入った」みたいなことを言っていた。山形さんでも(昔のことだろうが)そんな風に考えるのか。もっと自分の意見とか好みに絶対的な確信がある人だと思っていた。世間一般ではかっこいいことになっているらしいからそうしておく、って、まあそういう人たくさんいるけど。
また、バロウズ関係で今度本を出すが、彼が作品を書く書かないは彼が親からもらえるお小遣い(成人後も月30万くらいもらっていた)の額と関係があった!という検証をするとか、カットアップの手法をナボコフの小説に使ってみるとか、カットアップされた小説を普通の文章に戻してみるとか、そんないろんな実験をするらしい。
7)最後に質問コーナー。バロウズ関係の質問が多い。そこはあんまり興味ないので聞き流し。山形さんファンってバロウズファンから入った人が多いのかな…面白かったのはなぜ専門家と一般人をつなぐ仕事をしようと思うようになったのか、というあたり、むかしから教え好きだったとか、翻訳も考えてみればそういう仕事だとか、一つのことに打ち込んで専門家になれない、仮説を作って検証して、という大きな論文が書けないというところはあたしもそうだな〜と思った(レベルが違うって)。
でも、誰にでも苦手な作業はあるものなのだから、それにかかわずらいすぎずに早く終えよう、と未だに修論本文が終わらないあたしは思った。今この文章を書いているくらいのペースで書ければあっという間に終わるんだけどねえ…。
質問コーナーの最後に私も質問することができた。「コード」の内容について聞いていたときから気になっていたことで、インターネット上で法律を破れなくしても、現実世界では相変わらず法律を破る方法はあるのだからそれで構わない、という考え方もできるのではないか、と思ったのでそれを言ってみた。
答えは、「コード」を書いた人は、「ネット上のコミュニティ」に「現実のコミュニティ」と同じだけの価値を認めなければいけない、と考えているから、ネット上でも法律を破る方法が残されなければいけないと考えている、とのこと。
具体的に言うと、本名が分からず、連絡手段もメールあるいはその人のHPの掲示板だけみたいな、完全にネット上のあるコミュニティにしか存在しない人格がある。そういう人たちには現実世界の連絡方法が通用しないのだから、ネット内で何でもできなければ意味がない。…ということかなあというのがあたしの解釈。
でも、そういう純粋ネットだけのコミュニティって、どのくらいあるんだろうか。オフ会ってのはしょっちゅう開かれているし。Linuxとかフリーソフト開発者のコミュニティについては分からないけど、実際に会ったりは一切しないのかな?そのコミュニティ内ですごく有名になった人が、マスコミに登場したり、講演したりするようになったら? そこまで技術とか、ネットを通した共同作業をする必要のない一般人のレベルでは、あたしの経験からだと掲示板とかMLのネットコミュニティってって時々は実際に会える人たちの集まりであることの方が多いし、長続きするんじゃないかな?
山形さん自身は、「ネット上のコミュニティにそこまでの価値があるかどうかまだ分からない」、とのこと。結構答えにつまっていて、「きつい質問ですね」とか言われてしまった。うへへへへ。じゃなくて困らせてすみません。
これで講演会は終了し、会場ではその「コード」と「山形道場」が売られていた。結構買ってる人も多かった。あたしは山形道場はもう持ってるし、コードは生協かどこかで買おうと思いあまり見なかった。掲示板とかで名前を見かける人たちに会いたかったけど、誰が誰だか分からず(当然)諦めてまっすぐ帰りました。「山形道場」にサインでもしてもらおうと思って持っていったけど、頼みそびれちゃった。残念。
おしまい。長くて疲れた。後でちょっと書き直すかも。
2008-03-19 (Wed)
#1 Naruyoshi Kikuchi Dub Sextet@東京キネマ倶楽部
Naruyoshi Kikuchi Dub Sextetの「The revolution will not be computerized」発売に伴う全国ツアーの東京公演に行ってきました。会場は東京キネマ倶楽部というところで、以前の歌舞伎町クラブハイツに続いてキャバレーっぽいレトロなゴージャスさのある空間。公式サイト(音が鳴ります注意…というか音が鳴るサイトはいいかげんやめてほしい)よりもぐるなびの方が大きな写真が載っている。このどちらにも写真は見つけられなかったが、舞台左脇に小さな昇り階段があり、階段の上にカーテンで覆われた小さな舞台があって、そこからメンバーが登場するのがとてもかっこよかったですよ。
このバンドは、COOL STRUTTIN' & co.という「ジャズミュージシャンをイメージしたスーツ」を作っているスーツブランドと提携していて、このツアーでメンバーが着ているのはそこのスーツだ。ライブ後にはこのブランドのシール5枚セットを配っていたので貰ったが、なかなかかっこよくかつかわいい。また別のブログで読んだのだが、ツアー中の別のライブでは高級腕時計ショップと提携して、そこの腕時計をはめてライブをしたらしい。こういうのを読むと菊地成孔ってミュージシャンや文筆業だけでなくビジネスマンとしての才能もあるのだなあと思ったり。
演奏については、私はジャズについて語れるほど聞き込んでないし語るべきボキャブラリーもないので、迫力があり大変満足だったというほか言葉がない。
そこで、演奏を聴く側の環境について思ったことを書くことにする。ライブ前日に更新された菊地成孔の速報にて彼は、
このバンドのミッションは、踊るか踊らないかをお客様が(片方か、もしくは両方を同時に)選べる音楽、つまり立っても座っても観賞が成立するアンビバレンス/クールを作るということなのです。
と言っていたり、ライブ会場の選定にもこだわりがあるのだから、観客の側から意見を言ってもいいだろう。同じ日の速報では、
明日の公演はシッティングが100、スタンディングが600
とも言っていたので、その時点で整理番号が348だった自分は座るのは無理だと諦めた。このチケットを買うために、特別先行販売のためweb経由で申し込んだのに(しかも、何度かに分けて先行販売があったのだがその中の一番最初の回に申し込んだのだ)、座れないのかとがっかりした。そのくらい、人間ライブで座れるか座れないかという選択肢があったら、座るものだと思う。
大体、よほど特殊な構造の会場でもない限り、ミュージシャンの目の前の良い席が座れる席で、その後ろや周りが立ち席になるのであり、今回もそうだった。また、2階の最前列で演奏を見下ろしながら聴けると言う数少ないが気持ちの良い席もあったが、それは大半が関係者席で、一般ピープルには関係ないのだ。
ライブで立ち席になったって、クラブとは違うのだから、踊りまくれるほど周りに空間があるわけではなく、周りの人と触れるか触れないかレベルにつめて立つのであり(そのくらいたくさん人を入れているのは主催者側だ)、立っていても別にそんな踊れるわけではなく、従ってメリットはほとんどない。
だから、立つか座るか選べるとか言うのなら、座れるなら余分にお金を出すというの込みで、チケットを買う時に選ばせて欲しいというのが正直なところだ。
ライブの際のドレスアップを推奨する菊地成孔に従って、座れないかもと思いつつハイヒールを履いてきてしまったので、帰りは足が痛かった。ハイヒールは2時間も立ちっぱなしでライブを聴くための靴ではないのである。今度からは立ちっぱなしなら普通の服にヒールのない靴で行こうと思った。


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